物と記憶
私は小さい頃から父の本棚から本を抜き取っては
読んで見ることが好きだった。
それがいつしか習慣となり
大人になっても本が好きである。
ふと今の時代、本自体が売れなくなり
パソコンや様々なツールを使って本を読むことができる世の中で
家に本が残って行かないことの重大さに気づいた。
私は小さい頃から自分で選ぶことなく
そこにある本を自然と読むようになり
「読みなさい」と言われたことは一度もない。
しかしながら結婚して家を離れてからも
たまに帰省して父の本棚にある本を読むのが好きだ。
物としてそこに残ることは、受け継ぐことなのだと思う。
私たちが本からいただいた物を
強制力なく優しく人に伝えることだ。
物はなくても、内容を知ることのできる時代。
どこにも行かずしてそれをいつでも得ることができることは
とても便利でいいことだと思う。
しかしながら私はあえて物として本を残すことで
受け継ぐことに希望を注ぎたいと
そんなことを思う今日この頃。
おおじいじと種
私の父方のおおじいじ(祖父)は91歳になるがとても元気だ。
お酒を飲みながら人と話すことと
畑で野菜を育てることが生きがいだと言う。
「わしゃー、毎日種と芽のことを考えちょる。
今日蒔いたあの種が何日には出るだろう思うて、そればっかり考えとるんじゃ。
そいじゃがの、こないだ蒔いた種がいっそ芽を出さんことがあってから
そうしたら横の方から思わんところから芽が出とったんじゃ。
あー、人生ちゅうのうのはそういうことかも分からん思うての。
ほんにおもしろいわ。」
私が実家にいた頃ほどの元気はなく、体も随分と衰えたおおじいじ。
だけれど小さな種を蒔き、その成長を見つめながら
きらきらした目をして暮らしている。
私がもし同じぐらいの年齢まで生きられたとして
どんなことを思うのだろうか。
その時きっと、おおじいじの言葉を思出だすだろう。
種をまき、それが芽を出し、成長すること。
そのことは野菜作りという言葉ではくくれない
じいちゃんの言う生きることの真理が
つまっていることのような気がしてならない。
花と子ども
子どもたちはいつも花を摘んでは持って帰ってくる。
その花たちがいつもみとれるほどきれいではっとする。
子どもたちがいると大変なことが多いけれど
大人だけでは生まれないことばかりで
うっかりしていると見過ごしそうな
小さな感動が日常にはあふれている。
においといろ
離れていてもできることがこの数ヶ月間でたくさんふえた。
オンラインという便利な方法を使えば
今まで遠くてあきらめていた講座やライブだって
楽しむことができる。うれしいし楽しい。
このところ言葉のふえた1歳の次女を見ていて
こんなにも変化している世の中で
この子が大人になった時にはどんな世の中になっているだろうと
あれやこれや想像をめぐらせてみる。
きっと今私たちが考えている物事に対するベクトルも
「昔はね。」と振り返る時が来るのだろう。
そんなことを考えながら
ふとこめじるしの森を眺めると
何度見てもはっとする緑や黄緑や黄色の
色とりどりの色彩と光が美しく揺れていて
川の音とその木々たちや土から香る
豊かな匂いが風と一緒に流れてくる。
このにおい、いろたちが変わる時はきっと来ない。
だからこそ子供たちに覚えていてほしいなと思う。
オンラインでも届けることができない
ここにしかない「におい」と「いろ」たちを。
。
しこをふむ日々
目の前にあることをこつこつと続けることを
「しこを踏むように。」という言葉で表現されたお客様がおられた。
私たちのお店は小さくて、夫婦2人で本当に良いと思うことを
ただただ誠意を持って続けることを大切にしていて
世の中が不安定な今、そのことの強さをひしひしと感じている。
まずは家族が美味しいと言ってくれるものを作って
家族が楽しいと思えるくらしを営んで
そこからお客様に丁寧に伝えて
お客様からまた大切なことを受け取って。
時に大きく何かを動かすことに繋がらないもどかしさが
おしよせることがあっても
深呼吸するようにまたもとの姿勢に戻って
それはやはり「しこを踏む」ように
ただただくりかえし続けていく。
こめじるしに通ってくださる方のことを思って
今日も粛々と、美味しいコーヒーと美味しい焼き菓子のことを考えて。
冬と落書き
この冬は雪がないので「こわいような気がするね。」なんて
お決まりの話をお客さまとしたりして
本当なら白い帽子をかぶっているはずの山々も
遠くの方まで頂上の様子を見ることができるほど。
「こんな年は山に水がなくてこまるだろう。」
「きっと楽なかわりに何かが起こるよ。」
何だか疑心暗鬼な心持ちが人の中に蔓延しているようで
森にある狂い咲きの椿を眺めてはどきどきしたまま
家に帰ると子供たちが帰ってきて
1歳の次女を抱っこすると
手のひらいっぱいに色とりどりの油性ペン。服の袖までも。
「もーちゃんが油性ペンのフタあけたけー。ごめん。」と長女。
次女はにこにこ満面の笑顔。
そんなささいなこと。でも、何だか心が晴れた心地がした。
カマキリとお墓
閉店後、いそいそと家に帰る支度をしていると
駐車場で生き絶えてしまったカマキリがいるのを見つけて
「おかはを(お墓を)作らんといけん。おかはを。」と3歳の長女。
木の枝を2本拾ってきて、箸のようにカマキリを挟んで
車が踏みそうにない場所を見つけ穴を掘る。
中にそれを埋めてあげたあとは、お花をつんできて
「1本じゃ寂しいじゃろ。もう1本いる。」とまた探しに行き
つんできたお花を丁寧に埋めた場所に植えた。
その様子を眺めながら、私は先を急ぐことをやめた。
彼女にはその時、お墓を作ることが何よりやらなければいけないことで
私が帰って夕飯を作ることよりも、家事をすることよりも
大切なことのような気がした。
次の日お店に行くと、駐車場の端にお墓のそばに植えられた
昨日のお花たちがそよいでいた。
それを見た時、しばらく見つめていたいような
何ともあたたかな気持ちになった。