炊き風呂と家族
我が家は五右衛門風呂。
風呂の温度は薪を燃やす加減によるのだが
入った最初は熱くても良いけれど
子供たちが一緒に入る頃には多少ぬるめが良い。
そうなると微妙な燃やし加減が必要で
もはや毎日のことなので風呂を焚いてくれる
父さんはその要領を得ている。
しかしながら「熱い?」や」「もう少し燃やそうか?」といった
薪を燃やす人と入る人とのコミュニケーションが必要で
先に入った人は、後から入る人に
「もう少し燃やしとこうか?」といった気遣いも生まれてくる。
子供たちもいて忙しい中で
なぜあえて五右衛門風呂かと言われることもしばしば。
でも、生活の中で人が人のことを想像したり
思いやったりする機会は「自動」に囲まれるより
はるかに多いと思うのだ。
五右衛門風呂は大変。確かに大変。
けれど寒い冬に薪で温まった湯につかると
あたたまることはもちろん、家族の距離もぐんと近くなる。
つい忙しさに手放しがちな生活の中の色々な行為。
簡単に捨ててしまわずに、できる限りは大切にしたい。
おき火とマスク
ありがたいことにこめじるしは
常連さんたちがおき火のようにあたためていてくれて
世の中の動きを見ていると
不安になるような心持ちも
お客さまの顔を見て、お話をして
それでほっとするような、大丈夫だよと
守られているようなそんな心地がする。
世の中マスクをしなければいけないという決まりごとができると
「マスクをしていない人はいけない人だ」という考えが生まれ
公共の場では咳エチケットをという決まりごとには
「咳をする人は何か悪いものを持っている」という疑念が生まれる。
そんな中にあって、できていないことに目を向けるよりも
できていることに目を向けたいと思う。
こめじるしに来てくださるお客様には
いろいろな疑念を向けるよりも
マスクを着用してくださってありがとうございますと
来てくださってありがとうございますと
ただそんな気持ちでお迎えしたいと思う。
本当に心がけなければいけないことは
世の中の決まりごとに添うだけではなくて
一人ひとりが自分の頭で考えて判断することだと思う。
コロナウィルスの感染拡大によって
心の温もりまでも消えてしまうことは恐ろしい。
まだまだ先行きの見えない状況の中で
丁寧に淹れたコーヒーと焼きたてのおやつで
少しでもお客さまの心がほぐれたとしたら
こめじるしをやっていてこれほどうれしいことはない。
偶然と必然
「印刷物は本当に力を持っていて時間を超えていく。
それがたまたま誰かに見られ、
その人の記憶や何かと照合してくれればいい。」
何気なく雑誌をめくっていたら
写真家 森山大道の言葉が目にとまった。
そういえば、これまでの人生で
「たまたま出会ったもの」の方が自分に大きな影響を与えているような気がする。
何かを求めて探そうと思うと簡単に見つけられる時代だけれど
偶然は求めても得られない。
何もが無駄をなくし、簡略化する時代にあって
必要なものを、必要な分だけ手に入れられる今。
必要なものって何だろう。それは誰が決めるのだろう。
余剰から生まれるものや、無駄に思えるものの中に
実は大切なものが転がってはいないだろうか。
時代の流れに、大切なことまで流されそうな心地がするけれど
偶然の楽しさ、無駄なように思えることの中にある意味までも
捨てずにいたいなと思う今日この頃。
秋と萩
萩の花が今年も咲いた。
この花が好きで、こめじるしの庭に苗を植えて
きれいに咲いた翌年には
秋生まれの次女の名前を「萩乃」と名付けた。
毎年この花がきれいに咲くたびに
秋の訪れを感じながら子供の成長を改めて感じる。
こめじるしの森にはたくさんの木々があって
紅葉がきれいな秋、荒涼とする冬、芽吹きの春、蒼々とした夏と
植物が季節の訪れを教えてくれる。
子どもの成長も、忙しさで感じ入ることもない日々だけれど
自然は常に変化して、季節がめぐることを着実に知らせてくれる。
おでかけしなくても、何か特別なことをしなくても
視点を変えてそこにいるだけで豊かな気持ちになることができる。
それは自然のそばでくらすことができているおかげ。
刻々と変化する子どもたちの「今」を大切に見つめたいと
日ごとに色濃くなる萩の花を眺めながら思った。
川と倒木
主人が川に落ちた。
森にある太い木の根が腐り、倒れかけて危険だったため
それをどうにかしようと木の上で作業していた時のできごと。
木が折れる寸前の音はミシミシと恐ろしい。
その瞬間、あっと言う間に主人は川の中にいた。
そして泳いでいた。
一瞬ひやっとしたが、危険な高さからではなく
足をつきながらの落下だったため
2人で腹の底から笑ってしまった。
子供が一緒にいるわけでもなく
森で大笑いしている大人2人。
ここのところどこか遠くにでかけることもなく
そんなことをしていたら休日が過ぎる。
木を伐ることも簡単でない。
自然を相手にしていたら時間がいくらあっても足りない。
一瞬で昼間の暑い時間帯は過ぎ、涼しい夕方の風が吹き、朝方には寒いくらい。
邑南町で過ごす夏も8回目。いろいろなことが見えてきた。
物と記憶
私は小さい頃から父の本棚から本を抜き取っては
読んで見ることが好きだった。
それがいつしか習慣となり
大人になっても本が好きである。
ふと今の時代、本自体が売れなくなり
パソコンや様々なツールを使って本を読むことができる世の中で
家に本が残って行かないことの重大さに気づいた。
私は小さい頃から自分で選ぶことなく
そこにある本を自然と読むようになり
「読みなさい」と言われたことは一度もない。
しかしながら結婚して家を離れてからも
たまに帰省して父の本棚にある本を読むのが好きだ。
物としてそこに残ることは、受け継ぐことなのだと思う。
私たちが本からいただいた物を
強制力なく優しく人に伝えることだ。
物はなくても、内容を知ることのできる時代。
どこにも行かずしてそれをいつでも得ることができることは
とても便利でいいことだと思う。
しかしながら私はあえて物として本を残すことで
受け継ぐことに希望を注ぎたいと
そんなことを思う今日この頃。
おおじいじと種
私の父方のおおじいじ(祖父)は91歳になるがとても元気だ。
お酒を飲みながら人と話すことと
畑で野菜を育てることが生きがいだと言う。
「わしゃー、毎日種と芽のことを考えちょる。
今日蒔いたあの種が何日には出るだろう思うて、そればっかり考えとるんじゃ。
そいじゃがの、こないだ蒔いた種がいっそ芽を出さんことがあってから
そうしたら横の方から思わんところから芽が出とったんじゃ。
あー、人生ちゅうのうのはそういうことかも分からん思うての。
ほんにおもしろいわ。」
私が実家にいた頃ほどの元気はなく、体も随分と衰えたおおじいじ。
だけれど小さな種を蒔き、その成長を見つめながら
きらきらした目をして暮らしている。
私がもし同じぐらいの年齢まで生きられたとして
どんなことを思うのだろうか。
その時きっと、おおじいじの言葉を思出だすだろう。
種をまき、それが芽を出し、成長すること。
そのことは野菜作りという言葉ではくくれない
じいちゃんの言う生きることの真理が
つまっていることのような気がしてならない。