晃生さんと私たち その2
たまたま子どもたちと一緒に楽しめる音楽を探していて
「ローバート・バーロー」というユニットの存在を知って
そのメンバーとしておられる晃生さんの音楽を
何気なく聴いてみたことがはじまりだった。
車の中で、家で過ごしているとき、毎日聴いている晃生さんの音楽は
私たちにとって「よく噛むこと」みたいだと思う。
よく噛むことって、ついつい忘れてしまう。
でも、ごはんをよく噛んでみるとあれ?こんなに甘かったっけと感じるように
子どもたちを見つめることも、ごはんを作ることも、仕事をすることも
うっかりしていたら一瞬で流れてしまいそうな時間たちが
晃生さんの音楽を聴くと、そうだったそうだったと
愛おしい時間や風景に思えてくるような心地がするから不思議だ。
ゆっくり噛みしめてみると、いくらでも美味しくなる日常。
そのことを晃生さんは優しい歌声で投げかけてくれる。
子どもたちのお迎えの時に車の中で聴きながら行くと
うっかり涙が出て来てしまいそうになるから危険でもある。
お店にはCDも置いてあります。
視聴したいんですけど!と言われたらすぐにお店で流しますので
お気軽にお声がけくださいませ!
晃生さんと私たち その1
あるアーティストに夫婦2人でファンレターならぬファンメールを送った。
どきどきしながら、返信なくてもしょうがないよね、でもあったらうれしいよね、と
想いを込めて一生懸命文章を書いて送った。
数日経って、返信が届いた。2人でうれしくてうれしくて何度も読み返した。
想いは届いて、なんとお店にCDを置かせていただく流れとなった。
お店の商品としてではなくて、ここに書いている日々のことの延長上に
つながる出会いとしてこの方のご紹介をしたいと思う。
音楽家 小田晃生(オダコウセイ)さんのこと。
一度には書ききれないので、次の回に続きます。
お店とまち
「お店を営むことは、そのまちをデザインすることだ。」という言葉を
あるイベントで聞いて、そうであるならば本当に素敵だと思った。
たとえば家族とお店でおやつを食べる時を
職場からの帰りに立ち寄ってコーヒーを飲む時を
1人になって静かに風景を眺める時を
それまでなかった時と場所を生み出すことができたら
それは確かにまちの人の行動を生み出すデザインだと思う。
こめじるしのある場所は都市部のように
たくさんの人が往来する場所ではないから
人が求めているものばかりを提供するのではなくて
行動を生み出せる場所であることをめざしたい。
いつもそこに変わらぬコーヒーとおやつがあって
偶然立ち寄った人にも、よいしょと思って足を踏み入れてくださった人にも
「たまに来るのもいいな」と思ってもらえる場所であるように
大切にしたいことを、ずっと大切に伝えたいと思う今日この頃。
おいしさと記憶
次女が3歳の誕生日を迎えた。
たまたま帰省と誕生日が重なったこともあり
母が孫のためにバースデーケーキを作ってくれた。
うまくふくらまなくて2回焼いたスポンジが重ねられ
かすかに記憶に残る昔私に作ってくれたケーキと同じように
スライスされたバナナが挟まれていて
生クリームが丁寧に塗られ何人分かという大きな大きなケーキに仕上がっていた。
「おいしいとは何だろう。」このところ考え続けている問いに
母のケーキは優しく答えをくれたような気がした。
ひとつひとつのお料理やお菓子には
そこに費やされた時間も、思いも目には見えない。
けれどそれは確実に記憶となってそこに宿り
受け取る人にぬくもりとなって伝わる。
それを何と言葉にして現そうか。
そのひとつの言葉はきっと「おいしい」だと思う。
心からの「ごちそうさまに」と一緒に。
森のスタッフ
オオサンショウウオがまたこめじるしの川に姿を現してくれた。
2年前の夏もお店に来てくれていた小学生の男の子が発見し
興奮気味に教えてくれたのだが
今年の夏もまた森に行っていたお客様が教えてくださった。
その日は川遊び目的のご家族が続いたため
森は1日にぎやかで子供たちの声が響いていた。
昼間はほとんど活動しないオオサンショウウオは
川で遊ぶ人たちをどう眺めていたかは分からないが
夕方閉店後に川に行くと
まだそのオオサンショウウオの姿があり
近くに行くとすいーっと石の影に隠れてしまった。
こめじるしは私たち夫婦がきりもりしているが
ふだんは見えない森のスタッフたちがいるのだ。
そう思うまた、お店を続けることが楽しくなってくる。
土と人間
たかきびの種をまき、苗をたてて
さてどこに植えようかと考えていたら
ほんとうにありがたいことにタイミングよく
こめじるしの裏にある畑を使っていいよと言ってくださり
無事植えられるはこびとなった。
さあ植えるぞと、ふたりではりきって始めた閉店後16時。
甘くみていた苗箱6箱の苗たち。
ひたすら穴をほり、液肥を入れては苗を植える作業は
想像以上に大変な作業だった。
最初はあれやこれやと話しながら植えていたが
後半は子供たちのお迎えの時間もさしせまり
二人とも無言。ひたすら穴を掘っては植える。
汗をかき、とびかう虫たちをふりはらい
はたと何だかお腹の底から笑いがこみ上げてきた。
何をしているんだろう?
その瞬間が何だか痛快でもありこれだという感覚があった。
苗をたて、伸びたら植えて、土を耕し、肥料をまいて、植える。
自然のペースで、ただ自然に向かう行為は何も考えることはいらない。
今必要としていることはこれかな。なんて思ってしまった。
何のためと言われれば困るけれど、自然のペースで
自然と一緒に動くこと。これがわくわくしてしょうがないのである。
田んぼとくりかえし
田植えを前に水をはった田んぼを見て
「海みたいねー。」と次女が言った。
「そうだね。ここに今からお米の苗を植えるんじゃね。」と私。
それを聞いていた長女が言った。
「お母さん、私気づいた、いま気づいたんよ。
田んぼってね、くりかえしなんじゃね。」
そして言葉を続ける。
「だって水を入れて、苗が大きくなって、お米が育ったらみんなでとるじゃろ。そしたらまた最初に戻るじゃん。」
私はとてもうれしかった。
2歳の次女には海みたいに見える風景も
5歳の次女が言う「くりかえし」も自然が教えてくれたことで
そのくりかえしは、きっと人生の支えになり
何かを考えるときの軸になってくれるであろうと思う。
季節はめぐり、自然はくりかえす。
そこから生まれた食に恩恵を受けながら営むくらし。
実は私が教えてあげられることなんてほんのわずかで
自然のそばで、それらに目や耳をかたむけていれば
それだけで十分豊かなんだな。
肩の力がすとんと抜け、今ここにいるありがたさを実感した。